現代社会は深刻な課題に直面している。私にはそう見える。権利ばかりを主張し、責任を回避し、言葉遊びに終始する。そして何より、簡単にお金が稼げるインターネットの普及により、知的努力が経済的に報われない構造が完成した。
この状況を変える唯一の方法は教育である。しかし従来の教育ではない。倫理・道徳・知性という「三心」を基盤とした、人間の最低基準を確立する教育である。
現在の教育は知識の詰め込みに終始している。しかし知識だけでは人間として機能しない。必要なのは:
この三つが揃わなければ、社会参加において重要な要素が不足していると言えるのではないだろうか。
「多様性」「個性」「自由」といった美辞麗句が教育現場を覆っている。しかしこれらは具体性を欠いた言葉遊びに過ぎない。
重要なのは抽象概念ではない。それを具体化し、実装することである。私は抽象論よりも実践を重視したいと考える。
現在の教育は生徒に責任を教えない。「権利がある」「個性を大切に」「自分らしく」。すべて責任を伴わない甘い言葉だ。
その結果、社会に出てからも責任を回避し続ける人間が量産される。政治家は「国民が選んだ」と言い、国民は「政治家が悪い」と言う。誰も責任を取らない社会の完成である。
目標:他者への基本的尊重と、普遍的原理の理解
方法:
評価:他者の立場を理解し、普遍的原理に基づいた判断ができるか
目標:集団における自己の役割認識と責任感の育成
方法:
評価:責任を他者に転嫁せず、自己の役割を引き受けられるか
目標:情報を構造として捉え、実装可能な形まで具体化する能力
方法:
評価:問題を構造的に分析し、実装可能な解決策を提示できるか
多くの教育改革は即効性を求めて失敗する。教育は人間の基盤を作る作業であり、最低でも一世代の時間が必要である。
適切な指導者による統治が実現すれば世界は変わる可能性がある。しかし、それは今すぐではない。困難な時期が相当期間続くと予想される。
第1-3年:制度設計と初期実装
第4-7年:効果の蓄積期
第8-10年:構造的変化の実現
制度を変えるだけでは不十分である。制度を運用する人間が変わらなければ、同じ問題が繰り返される。
教育によって人間の質を向上させることが、根本的解決への重要な道ではないだろうか。
三心は絶対的な基準である。しかし、その解釈や適用には幅を持たせることが重要だ。
私自身も完璧ではない。日々の生活の中で判断に迷うこともある。しかし、そこには常に自分の責任というものを考えている。状況に応じた適切な判断を心がけ、その結果に責任を持つ。これが三心の実践だと考える。
三心教育は教条主義に陥ってはならない。重要なのは形式的な遵守ではなく、責任ある判断の継続である。
偽物:「私は完璧に道徳的です」 本物:「完璧ではないが、責任は考えています」
三心という考えは、私自身が具体的ではないと考えている。ある程度のゆらげる範囲を持たせるのは当然である。
これは制度の欠陥ではなく、生きた制度であるための必須条件である。
全面的制度転換
教員養成の革新
社会的理解の促進
従来の偏差値教育から、三心を軸とした評価への転換:
大学入試制度の根本的改革:
回答:エリート主義ではなく、人間の最低基準である。三心は生まれついての才能ではなく、教育によって習得可能な能力である。
回答:私は三心あってからの多様性しか認めない。構造責任のない多様性は制度崩壊の温床となる。
回答:これは理想論ではなく実装論である。具体的な教育方法、評価システム、段階的導入プロセスまで設計している。
現代は文明の分岐点にある。このまま言葉遊びと責任回避を続けるか、三心教育によって人間の質を向上させるか。
私たちには選択の機会があると思う。
私たちは次世代に何を残すのか。破綻した制度と愚かな大衆か、それとも三心を持った責任ある人材か。
教育こそが、その答えを決定する。
三心教育は理想の実現ではない。それは人間として当たり前の基準を取り戻すことである。
そして、その当たり前を実現するために、私たちは10年という時間を投資する覚悟を持たなければならない。
この教育が実現できる世界こそが、理想的な世界のあり方だと私は考える。
2025年7月