※この記事は、前回投稿した内容と繋がるものになっています。

前回は「制度」や「環境」を軸に、社会の構造的な歪みを見ていきました。
今回はその根底にある「信頼」や「関係性の再構築」に焦点を当てています。

少子化や人材不足の話も、突き詰めれば「人と人との距離感」や「紹介・信頼が持つ意味」へと辿り着く。

そんな視点で、社会のもう一段深い層を見ていきたいと思います。

大テーマ:日本
中テーマ:少子化
小テーマ:教育

目次

  1. 第1章|もう手遅れかもしれないという現実
  2. 第2章|切り捨てられた世代と断たれた未来
  3. 第3章|社会風潮の変容と人間意識の希薄化
  4. 第4章|人を増やすだけなら簡単だ、だが──
  5. 第5章|小学校から始める人間信頼の再設計
  6. 第6章|「考えたくない者たち」がこれまでを無駄にしてきた
  7. 第7章|縁が未来をつなぐ社会へ
  8. 終章|信頼がなければ社会は続かない

第1章|もう手遅れかもしれないという現実

私はもう無理だと思っている。率直にそう感じている。出生数は減りすぎた。あまりにも。時期を逸したとも思っている。団塊ジュニア世代のうち、就職氷河期層が家庭を築けない状況に追いやられた時点で、もうこの構造は止めようがないのではないか。そう思ってしまうくらいに、日本社会の構造的損失は大きい。

でも、それでも、やらないとダメなんだ。

やらなければ、本当に取り返しがつかなくなる。今がその瀬戸際だと思っている。手遅れかと思うけど、やるしかない。何もしないことの方が一番まずい。既に純減なんだから私は言う。簡単にできることから、やればいい。正しい方向かどうかは、やってみなければ分からないから。

第2章|切り捨てられた世代と断たれた未来

少子化が急激に進んだのは、団塊ジュニアから氷河期世代を完全に切り捨てたからだ。企業はバカだった。将来を考えず、自分たちさえ良ければいいと短期の利益だけを見て、若者を雇わなかった。政府も同じ視点で、「自己責任だ」と言って切り捨てた。(だが企業の方は理解出来なくもない、短期的目標の達成を続ける事が中期的、長期的な目標への一歩だからだ。)

結果としてどうなったか。家庭を築ける層がごっそり抜け落ちた。結婚できず、出会いも減り、子供を持てる土台がなくなった。

これは構造的に見れば当然の結果だ。子が減ったのは、産まなかったからではなく、産める層を潰したからだ。これは数字にも出ている。どれほど制度をいじっても、この根っこの構造を無視すれば回復などあり得ない。

第3章|社会風潮の変容と人間意識の希薄化

制度の崩壊と並行して、社会そのものの空気が変容した。

娯楽。便利さ。即時の快楽。(コンビニ等の台頭、24時間営業などの台頭)

気づけば、人は人と関わらなくなった。隣人も、職場の人間も、地域の大人も、関係を結ばなくなった。自分の時間、自分の楽しさ、自分の快適さだけを重視するようになった。

人と関わるのは“面倒”、信頼するのは“損”──そんな風潮が浸透してしまった。これは完全に価値観の転倒だ。

結果として、子供を持つという行為が、責任と負担の象徴になった。「楽しければいい」社会では、未来を託す意味が失われる。夢もなく、希望もなく、「子を持つこと」の意味が剥がれ落ちていった。

第4章|人を増やすだけなら簡単だ、だが──

言ってしまえば、人(子供)を増やすだけなら簡単な話だ。不倫でも多重婚でも容認し、赤ちゃんポストを拡充し、国家が育てればいい。
何なら日本より後進の位置にある国から招待すれば良い。

倫理的な規制を外し、出産と育児を完全に分離すれば、人はもっと増えるだろう。実際それは最速であり、最高効率であるとも言える。

だが、私はそれを望んではいない。私の価値観とは大きく異なる。
これでは意味が無いのだ。

だからといって何もしないのは問題を先延ばしにし、もっと大きな問題とするだけだ。

私たちが倫理を掲げるのであれば、その倫理が現実に貫かれるような制度が必要だ。 それを支える支援もまた欠かせない。

第5章|小学校から始める人間信頼の再設計

私は以前から、小学校教育に『レクリエーションタイム』の導入を提案してきた。

これは難しいことではない。むしろ一番簡単に実行できる部類だ。
(日本で英語教育等必要無いとすら考えているので、その時間から週に1時間でも当てれば良いと考えている。)

男女の自然な交流。人と関わる経験。異性を同じ人間として見る感覚。そういったものは、早い段階から育てる必要がある。恋愛や結婚はその延長線にあるべきで、突如大人になってから「出会え」と言われても遅い。

この時間には、家族や地域の人も参加できる形が望ましい。人と関わることが悪いことではない、という実感が子供のうちにあれば、それはやがて縁や出会いとしてつながっていくはずだ。

人間関係の構築。信頼の構築。
教育が勉強だけに偏るのでは無く、人間として必要な部分を担えるのは、実はここだと思っている。

第6章|「考えたくない者たち」がこれまでを無駄にしてきた

なぜこんな簡単なことを、政治も行政もやろうとしない? と何度も考えていた。

それは、彼らが考えたくないからに違いない。

「難しい」「責任が持てない」「反発が出る」──そうやって逃げてばかりで、簡単にできることすらやらなくなった。何もしないという選択肢は、最も罪が重い。

国や社会を信じられない中で、子供を持とうと思う人はいない。社会とは人を信じさせることでしか成り立たない。

倫理、制度、信頼、それらを支える人間関係。

それを少しずつでもつくっていくしかない。遅いかもしれないが、やらないよりはずっといい。私はそう思っている。

思想・信念・関係性をしっかりと持たせる必要があるのだ。(人それぞれのもので良い)

第7章|縁が未来をつなぐ社会へ

誰かが誰かを信頼し、つないでくれる。そこに根源的な人間関係がある。

人と人とがつながることで生まれる「紹介」という行為は、単なる便宜ではない。信頼と責任の象徴であり、未来への“縁”でもある。結婚も、仕事も、人生の節目において“誰かが背中を押す”という行為が持つ意味は、数値では測れない。

この社会が再び人間関係を基軸に動き出すなら、紹介という行為は再び意味を持つようになるだろう。

紹介とは、信頼が可視化されたかたちであり、縁が働く社会こそが人を孤立から救い出す。

終章|信頼がなければ社会は続かない

結局のところ、社会というのは信頼でしか繋がっていない。
制度でも、支援でも、金銭でもない。
誰かが誰かを信じて、“大丈夫だ”と思えるから成り立っている。

私は紹介や縁の話をしてきたが、それは形式ではなく中身の問題だ。
紹介が生きる社会ではなく、信頼が生きる社会でなければならない。

信頼は、制度で与えるものではない。
考え、感じ、判断し、積み重ねていくしかない。
それがないなら、どれだけ制度を整えても人は産まれない。人は繋がらない。

他人を信じられない社会で、未来を託そうなんて思えるはずがない。

信頼とは、人と人の間にある“感触”のようなものだ。
数字で測れるものではないし、合理で割り切れるものでもない。
だがそれがない社会は、どこかで確実に崩れていく。

私は、そういう感触をもう一度取り戻すしかないと思っている。
遅すぎるかもしれない。だが、何かを成す必要があるだろう。