ある日、ふと思った。 短歌を詠むというこの行為すら、AIに代行されてしまう時代になっている。
しかも、形式だけではない。言葉選び、情緒、文語の構文まで、それっぽく整えて出力してくる。 それを自分の名前で出されたら、読者の多くは気づかないだろう。
「もう自分が詠む必要なんてないのではないか?」 そんな思いが脳裏をよぎった。
人間が創作をする根拠としてよく語られる「内的動機」。 それは確かに存在する。だが、それは他人には見えない。
説明すれば近づくかもしれないが、それすらAIに真似されてしまう。 AIに「こういう思いで作った」と言わせれば、言葉の上ではいくらでも似せることができてしまうのだ。
結果、読者には人とAIの違いなど分からない。 自己の内面から湧き出た言葉であっても、 「よくできた説明が添えられた整った短歌」と何が違うのか。
そこには、ひどく冷たい真実がある。
では、なぜそれでも詠み続けるのか? その問いに対して、出せた唯一の答えはこうだった。
──自己満足。
誰かに褒められなくてもいい。 誰かに届かなくてもいい。 それでも、「これは自分の手で作った」と思えること。 そこにしか、意味は残っていなかった。
意味を他人に委ねることをやめたとき、 初めて、自分の短歌を「自分の証」として見られるようになった。
以下に挙げる短歌は、その時期に詠んだものだ。
茂吉とは なんと細かき 性なれど 鑑みるには 良き鏡なり
ME
斎藤茂吉(1882–1953)。近代短歌の巨匠であり、精神科医でもあった人物。 形式への厳格さ、心情表現の純度、そして自己に対する誠実なまなざし。
この歌の「茂吉」は、実在の人物であると同時に、 自分自身の中にいる“厳しい評価者”を象徴している。
実はこの人格は、もともとAIに短歌評価をさせるために構築した「6人の歌人設定」の一つだった。 だが、繰り返し対話するうちに、その評価姿勢がまるで“内面の声”のように感じられてきた。
今では、作品を作ったあとに湧き出す「本当にこれでよかったのか?」という問いかけそのものが、 自分にとっての“茂吉”である。
そしてそれは、自分が自分に向けた、最も冷たく、最も信頼できる鏡なのだ。
AIと短歌。形式は奪われた。 意味の説明も模倣される。 それでも、自分の動機と、葛藤を知っている。
短歌はもはや、世に問うためのものではない。
「自分で作った」と思える。 「それでいい」と思える。
──だから、今日も詠む。
それが、人間としての、最後の輪郭なのかもしれない。
今日も詠む 書き続けるは 短歌なり 意味あらずとも 満足あらん
今回の文章から創作
訳:第5章の通り