読解に必要な知性水準(目安)

本稿は“難解な語りを難解なまま読む力”ではなく、
難解な構造に対して問いを立て直す力を試す文章である。


“Cognitive-Theoretic Model of the Universe”──
自己言語的に自己を記述する宇宙。

その語りは抽象的で、言葉は精緻に見えた。
構造は高密度に感じられ、知的誘惑に満ちていた。

しかし私は、ある問いを立てることで、
その構造の“根”に触れることになった。

──どのようにして、それを観測したのか?

私は「誰が(クリストファー・ランガンと想定)語ったか」ではなく、
「どのようにして語られたのか」を問いたかった。

だがその答えは、なかった。

定義がそのまま結論となり、
語りの前提が開示されず、
他者による追体験も再現も設計されていなかった。

思索の痕跡がない。
ただ整った言葉が、上から降ってくるだけだった。

それは、
哲学ではなかった。
思想でもなかった。

他者によって問われることを拒む構造は、宗教である。

私は誰かを否定するために、この文章を書いていない。
ただ、閉じた構造の中に思考が凍結していたという一点を記録しておきたかったのだ。

私が問いたかったのは、語る自由ではなく、問いに開かれる自由である。

だから私は今、記す。

CTMUは閉じていた。
そして私は、問いを投げたまま、それ以上を語らないことにした。


「すごい」の前に、前提を問うこと

CTMUに触れて「難解だ」「高度だ」と感じたときこそ、
その語りの前提に目を向けるべきだった。

“なぜそれをそう言えるのか?”

この問いを立てることができなければ、
どれほど精緻に見える理論も、ただの閉じた語りになる。

思考とは、感嘆から始まるのではない。
問いを立てることから始まる。

学びにおいても同じことが言える。
教えられた内容をそのまま「すごい」と受け取るのではなく、
“どのようにして?”と前提を問い直す力こそが、思考の起点となる。


あとがき

「本稿は特定の人物や信者を否定する目的ではなく、“閉じた理論構造”と“問いを拒む形式”への思索記録として記されたものである。」

※ なお、「IQによる読解力評価」は一つの目安に過ぎない。
本稿で問われているのは、むしろ「基礎的な問いかけの態度があるかどうか」である。
つまり、「どのようにして?」という問いが自然に立てられる人であれば、
IQ指標の上下に関係なく、本稿の核に届くことは十分に可能である。
重要なのは数値ではなく、構造に疑いを向けることができる思考の姿勢である。

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