― クオリアについて考えていたら文明の話になった ―

最近、クオリアについてずっと考えている。

クオリアというのは、例えば
赤を見たときの「赤さ」、
痛みの「痛い感じ」、
暖かいときの「あたたかい感じ」、
そういう主観的な感覚のことだ。

哲学では有名な問題があって、
なぜ物理現象が主観体験になるのか
という問題がある。
これは「意識のハードプロブレム」と呼ばれている。

つまり、

光の波長 → 電気信号 → 脳の処理

ここまでは物理現象で説明できる。
しかし、そこからなぜ「赤い」という感じが生まれるのかは説明できない。

これがクオリアの問題だ。


何もない世界の思考実験

ここで一つの思考実験を考えてみた。

世界に何もないとする。
音もない、光もない、温度差もない、触れるものもない。
完全に均一な空間に、自分一人だけ存在しているとする。

しかも自分はすでに大人の状態で存在しているとする。

このとき、自分は何を感じるだろうか。
何を考えるだろうか。

おそらく、何も感じない。
そして、何を考えればいいのかも分からない。

なぜなら、そこには差が存在しないからだ。

明るいと暗いの差もない。
暑いと寒いの差もない。
音があるとないの差もない。
触れていると触れていないの差もない。

差がない世界では、知覚も感情も思考も始まらない。

ここで一つの仮説が浮かんだ。

主観や思考は、差を認識することから始まるのではないか。


生物は差を認識しないと生きていけない

少し生物のことを考えてみる。

生物が生きるためには最低限、次の区別が必要になる。

これらは全部、「差」を見分ける能力だ。

単細胞生物ですら、濃度の高い方へ移動したり、光の方向へ動いたりする。
植物も光の方向へ伸びる。
動物は動きや温度差を感じる。

つまり生命の最も基本的な機能は、

差を認識すること

と言える。

生命
→ 生存
→ 差分認識

という流れだ。


知覚とは差を感じること

よく考えると、人間の知覚はすべて差を感じている。

もし世界に差がなければ、何も知覚できない。

完全に均一な世界では、見えないし、聞こえないし、触れている感じもない。

つまり、

知覚とは物体を見ているのではなく、差を見ている。


クオリアは差の強さかもしれない

ここでクオリアを考える。

痛みには強い痛みと弱い痛みがある。
熱さにも少し熱いとすごく熱いがある。
明るさにも暗いと明るいがある。

これはすべて「差の強さ」のように見える。

生物が生きるためには、

このように、強さのある信号が必要になる。

もしかするとクオリアとは、

差の大きさや強さを内部で感じる仕組み

なのかもしれない。

つまり、

差分
→ 感覚の強度
→ クオリア

という構造だ。


思考とは未来の差を予測することかもしれない

さらに考えていくと、思考も差で説明できるかもしれない。

人はいつも未来を予測している。

これは、過去の経験から未来の差を予測している。

つまり、

思考とは未来の差を予測すること

とも言える。

差を感じる → 記憶する → 次の差を予測する → 行動する

これが思考の基本構造かもしれない。


信頼と嘘も差で説明できる

ここまで考えていて、さらに面白いことに気付いた。

信頼も差で説明できる。

人を信頼するというのは、
「この人はこう行動するだろう」という予測が当たる状態だ。

予測通りに行動する人 → 信頼
予測と少し違う → 不安
予測と大きく違う → 不信
予測を裏切る → 嘘

つまり、

信頼とは予測との差が小さい状態
嘘とは予測との差が大きい状態

とも言える。

社会は信頼で成り立っているが、
信頼とは結局「予測可能性」なのかもしれない。


文明とは何か

さらに話を大きくすると、文明も差で説明できるかもしれない。

つまり文明とは、

差や不確実性を減らして、予測しやすい世界を作る仕組み

とも言える。


すべてつながっているかもしれない

ここまでを一本の流れで書くとこうなる。

差を認識する
→ 知覚が生まれる
→ クオリアが生まれる
→ 記憶が生まれる
→ 予測が生まれる
→ 思考が生まれる
→ 信頼が生まれる
→ 社会が生まれる
→ 制度が生まれる
→ 文明が生まれる

もしかすると、

意識、思考、社会、文明はすべて
「差を認識する」という一つの原理から
段階的に生まれているのかもしれない。

まだ仮説にすぎないが、
最近はそんなことをずっと考えている。


もしこれが正しいなら、
主観とはもしかすると

「差を内部で感じること」

なのかもしれない。