私は、現代の選抜や評価の仕組みには大きな限界があると感じている。
学歴、資格、経歴といった表面の情報に偏りすぎていて、その人がどう考え、どう判断し、どう責任を取る人間なのかが見えにくい。
本来、国家や社会を支える立場に立つ人間には、
紙の点数や肩書では測れない要素が必要になるはずだ。
私は、それを三心(倫理・道徳・知性)を基盤に評価する形に再構成できないかと考えている。
そのひとつの案が「令和版科挙制度」になる。
現代は情報が溢れ、判断の難度が過去と比べものにならないほど上がっている。
しかし、選抜制度は昔のままで、静的な試験や暗記に依存している。
私はこのギャップが社会の劣化を招いていると考えている。
こうした傾向は、評価制度が人を誤った方向へ誘導している結果でもある。
国家は人で成り立つ以上、
人を選ぶ制度が時代遅れのままでは安定は得られない。
私は、三心は人の判断の軸になると考えている。
逆に、三心がある程度揃っていれば、
立場や権限を持ってもバランスを崩しにくい。
私は、役職や年齢よりも、
この三心のほうがはるかに重要な指標になると感じている。
令和版科挙制度は、単純な一発試験ではなく、
人の思考や判断の仕方そのものを見る形式が中心になる。
私が想定しているのは次のようなものだ。
結論だけではなく、
どのように考え、どう辿り着いたかを見る。
倫理観が弱い人は、すぐに自己保身に走る。
こうした部分が最も表れやすい領域を重視する。
自分だけの都合で判断しないかを見る。
短時間でも思考の整理ができるかどうか。
私は、このような形式がもっとも本質的な人間性を反映すると考えている。
私は、令和版科挙を高みに置くつもりはない。
むしろ、適切な責任を負う人を、適切に配置するための仕組みにすぎないと思っている。
現代では、能力や人格と関係なく役職につくケースも多く、
それが組織や社会の不安定さにつながっている。
科挙制度は、その逆をやるためのものだ。
私は、科挙制度を通過した人間を特権階級にする気はない。
ただ、国家の方向性を議論する場や、
制度改善の場には参加できるようにするべきだと考えている。
それが「知性院」と接続する部分でもある。
三心に基づく人間が増えれば、
社会の判断ミスも減っていくはずだ。
私は、科挙制度を一度で完成させることは不可能だと考えている。
人も社会も変化する以上、制度はそれに合わせて調整されていくものだ。
令和版科挙制度は、
固定された試験ではなく、
“人間を正しく理解するための仕組み”として変化し続ける方が自然だ。
私は、学歴でも年齢でも肩書でもなく、
人を人として見る制度が必要だと思っている。
令和版科挙制度は、そのための一つの入り口であり、
私がこれまで考えてきた三心思想とも深くつながっている。
この制度を通じて、
より良い判断を下せる人間が増えれば、
社会の安定にもつながると考えている。